STORY

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胎児診断された時や、出産後悩んだ時・・・先天性横隔膜ヘルニアの病気をもって生まれてきたお子さんがどのように成長し、ご家族がどのような気持ちで過ごしておられるのか知りたいなと思っていました。

みなさんに知っていただき、この経験が少しでもお役に立てればいいなと思います。

HちゃんのSTORY(2018年11月生まれ)

妊娠当時、主人の転勤で金沢に住んでいました。

誰も知り合いがいない土地でのマタニティ生活。期待と不安で過ごしていたのを覚えています。

そして、里帰り出産の予定だったので、10月、33週の検診の際に紹介状をもらう予定でした。

でも33週の検診の際に、消化器の閉塞と拡張の疑いがあるので紹介状を延期させてほしい、翌週に再度エコーをして、必要であれば大学病院に行って検査をした後に紹介状を書かせてもらえないかと言われました。

まず、その宣告をされた時点で、消化器の閉塞、拡張について調べ、生まれて間もない体で手術を受けさせなければいけないことに絶望しました。今までの妊婦検診はすべて主人が付き添ってくれて、二人一緒にエコーをみて、かわいいねと微笑ましく温かな時間だった検診が、初めて帰りの車中、二人無言でグルグルと赤ちゃんのことを考え、少しでもいいように捉えられないかと考えていました。

実は、妊娠中、運動不足解消のため、主人と夜間のウォーキングをしていた時、ふと、「赤ちゃんが何か病気や障害があったらどうする?」と主人に聞いたことがあります。

その時、「自分たちの子供には変わりないから、どんな子であれ、可愛がるだけ」と即答してくれた主人に安心しました。

33週、紹介状が延期になった検診後、主人が用事に出かける時、いつもと変わらず、大きくなったお腹を撫でて「いってきます」と言ってくれました。主人を見送った後、急に涙があふれたことを今でも覚えています。

あんなに優しく、子供を心待ちにしている主人を、普通のパパにしてあげられないかもしれない。

子供にも痛い思いをさせて手術を乗り越えさせなければいけない。私のマタニティ生活でもっと安静に、もっと気を遣っていれば避けられたことではないのか。

一人繰り返し考えながらお腹を撫でてごめんねと伝えていました。

翌週、一人でクリニックに行きエコーを受け、やはり消化器の閉塞、拡張があるので、大学病院で検査を受けますか?と言われましたが、里帰り先の産院が35週までに一度検診を受けないといけなかったので金沢で精密検査をしたところで実家に帰る決意は変わらないので帰ってから精密検査しますとお伝えし、紹介状を取得しました。

34週、福岡に帰り、産院でエコーをしてもらうと消化器の閉塞、拡張は間違いないから、一度他の疾患もないか大学病院で検査してもらおうか。閉塞、拡張だけであれば、お産をこちらのクリニックでして、赤ちゃんを搬送し手術は別の病院で対応することも出来るからね。と言われ、一旦、大学病院への紹介状をもらいました。

大学病院の検査枠が取れたのが36週。

それまでに産気付かないか心配しながら実家で最後の一人時間を過ごしました。
そして、36週、実母に付き添ってもらい、人生で初めて大学病院に行き、検査をしたところ、閉塞・拡張よりも深刻な問題ですが、先天性横隔膜ヘルニアの疑いがあります。と宣告されました。

そして、36週になるので今日から緊急入院して母体管理をさせてくださいと言われ、急な情報量と、入院の覚悟ができぬまま、どこか他人事のような感覚でした。

そして尿検査のため、一度診察室を後にし、待合室で待つ母の顔を見た時、急に現実が襲ってきて、泣いてしまいました。

その後、MFICUに向かいながら涙が止まらず、看護師さんに励ましてもらった記憶もあります。

頭の整理が出来ぬまま、離れて住む主人に電話をして、横隔膜ヘルニアの診断を受けたこと、今日から入院になったことを伝えました。

私は大きなケガや病気に見舞われることなく過ごしてきたので、初めての入院、初めての手術、とても不安定な中1週間を過ごしました。

FICUでの入院中は、毎日エコーをしてもらい病状を探っていましたが、先生方でもあまり情報が掴めずギリギリまで横隔膜弛緩症かもしれないと言われており、産まれてからでないと分からないと言われました。

そして、予定手帝王切開術で37週の時に出産をしました。

出産当日は主人のみICUに娘の顔を見に行き、写真を撮ってきてもらって病室で眺めていました。

翌日、ようやく身体が動かせるようになり、ICUにいる娘に会うことができました。

薬の影響もあり浮腫んでいるわが子でしたが、多数の点滴につながれている姿でさえ愛おしく、可愛く感じたのを覚えています。

心配だった娘の病状ですが、右でも左でもなく心臓の背面である縦隔にヘルニア孔があり、大動脈裂孔ヘルニアと診断されました。

当時の主治医の先生から「症例の無い個性的な横隔膜ヘルニア」と説明して頂き、症例が無い不安な中でも前向きに受け止められるきっかけとなりました。

NICUやGCUに入院している時は毎日、時間の許す限り面会に行き、娘のそばにいました。毎日、家と病院との往復で、先の見えない生活に心身共に疲れる日もありましたが、主人や実家に助けられながら、娘が退院できる日を信じて日々を過ごしていました。

NICUで3ヶ月、GCUで2ヶ月を過ごしたある日、小児病棟への付き添いを提案され、困惑しつつも、娘と離れなくて済む喜び、夜寄り添って寝られる喜びを感じ、小児病棟へ転棟しました。

退院できるかもと言われながら、病状や経過が安定せずに先延ばしになったり、急激に不調に襲われICUに搬送されたり、そんな日々を繰り返しながら、やっと退院の日を迎え、今では家で家族そろって生活が出来ています。

今でも季節の変わり目の体調変化には敏感ですし、少々の不調で入退院を繰り返してはいますが、今は家族そろって同じ時間を過ごせることがとてもうれしいです。

これからも発達発育で不安になることもあると思いますが、今では娘が病気をもって産まれたことで繋がった御縁や知ることができた世界があるので、夫婦揃ってとても前向きに過ごすことができています。

HくんのSTORY(2018年4月生まれ)

 「先天性横隔膜ヘルニアの疑いがあります。」おなかの中の次男が胎児診断のクリニックでそう告げられたのは妊娠14週のことでした。

その時は、「まさか自分のこどもが横隔膜ヘルニアだなんて・・・どうしてなんだろう」と泣きながら家に帰りました。

その後、主人とも話し合い、どのような決断をするとしても、とにかく納得できるまでしっかり赤ちゃんをみてもらおうということになりました。

幸いにも、先天性横隔膜ヘルニアの胎児診断や胎児治療で有名な先生にみていただくことができ、同席してくださった小児外科の先生も前向きな言葉をかけてくださりました。

親としてはやはりどのように成長するのかが一番気になるところで、ガイドラインや色々な文献を読んだり、先天性横隔膜ヘルニアのお子さんをもつ親のブログをのぞいたりしました。

ちょうどその頃には胎動も感じ始めて、気持ちが揺れ動く毎日でした。

エコーで赤ちゃんを見るたびに、純粋に喜べないことが申し訳なくて泣いていました。

とても孤独な日々でしたが、中立的な立場で、私の心にも寄り添いながら相談できる方がいてくださったことがとても心強かったです。

今までの人生で一番悩み苦しんだ1か月となりましたが、19週1日のエコー写真のメッセージに「この1か月ずっと悩み続けて赤ちゃんと一緒に生きていくと決めました。」と記載しています。

その後はおおむね前向きに、楽しいマタニティライフを過ごしました。

でも、毎回の健診の度に重症度(左横隔膜ヘルニア、肝臓の陥入あり、L/T比0.08、o/eLHR35.6%で重症に近い中等症という診断でした。)がどうなっているか心配すぎて吐きそうでした。

生まれてみないとわからない、ということは重々承知でしたが、少しでも心配なことを言われると落ち込んでいました。

羊水過多になってしまい、早めに産休に入らせていただくときに、職場の方が、「みんなで育てていきましょう。」という言葉をかけてくださったことがとても嬉しかったのを覚えています。

38週くらいに誘発分娩の予定でしたが、35週になった日に破水で目が覚めて急いで病院に向かいました。

「できるだけおなかで過ごす方が良いのに破水させてしまった・・。」と絶望的な気持ちでしたが、その後3日間おなかにいてくれて35週4日に出産となりました。

出産時はNICUの先生も小児外科の先生も待機してくださり、出生後すぐに挿管していただき、最初に会ったときは肌色の良さをみて安心したことを覚えています。

早産ということもあり、最初はNICUでみていただくことになりました。

看護師さんの細やかなケアと、夜も寝ずに対応してくださった先生方のおかげで、安定した状態となり、生後2日目に手術を無事受けることができました。

横隔膜の欠損孔は大きく、人工膜を使用して閉鎖していただきました。

手術の後はICUに入室し、呼吸循環管理をしていただきました。

自分自身の退院後は、長男を保育園に送った足で病院に行き、保育園のお迎えまで次男と過ごしました。

家族の協力のおかげで、3カ月半休むことなく通うことが出来ました。

生後6日目に初めて手をにぎってくれ、目もひらいてくれました。

当たり前のことがこんなに嬉しいことなんだと知りました。

生後11日目には抜管し、呼吸の補助のレベルを下げることもできました。

母乳の通りもよく、点滴も徐々に減らすことができ、生後15日目には念願の抱っこが叶いました。

授乳の練習とお風呂以外はひたすら抱っこしていましたが、そのようにできたのも、看護師さんが母乳の温めや注入の準備など、すべて環境を整えてくださっていたからだと本当に感謝しています。

そのおかげで、夜間は付き添えない分、日中はしっかり抱っこしてあげたいという気持ちをかなえることができました。

主治医の先生も、こどもの治療はもちろんのこと、母親の心配や不安にも寄り添ってくださり、いつも安心できる言葉をかけてくださりました。良い病院、先生方と巡り合えたことは次男にとっても私たち家族にとっても幸運なことでした。

次男はなかなか母乳がのめず、嫌がってのけぞる次男と一緒にカーテンの中でよく泣いていました。

哺乳瓶だったら飲めるのかというとそうでもなく、必要量の1/5~1/4くらいしか口からで飲むことができませんでしたので、鼻から胃にチューブを入れて、残りは注入していました。

最初の頃はどうにかしてチューブを外してかえりたい、と必死になっていました。

このままだとずっとチューブがとれないのではないか、と先のみえない不安におしつぶされそうでした。

最初の頃は酸素さえもなしで帰りたい、となかなか在宅酸素の受け入れひとつにしても自分の中で時間がかかりました。

でも、そうこうしているうちに、次男は私をみて笑ってくれるようになりました。

次男の笑顔をみると、本当にかわいくて、「もう笑ってくれたらいいや。在宅酸素でいいからできるだけ早く家に連れて帰りたい。」という気持ちにかわってきました。

看護師さんたちも気にかけてくださり、そばを通るたびに「かわいい。」と言ってくださることが支えでした。

生後62日目には、初めて酸素ボンベを背負って、長男とドア越し面会が叶いました。

酸素ボンベをリュックに入れて、病棟内を散歩することもできるようになり、息子はもちろんのこと、私も部屋の中だけの世界から、一気に世界が広がり、新鮮な喜びでした。

退院前には同室といって、2泊3日病院に泊まって実際の手技をしたり、24時間一緒に過ごす、という時間をとっていただきました。

病棟でも有名なくらい癇が強く、よく泣いていたので、「夜も大変だろうなぁ。」と覚悟していましたが、想像よりはよく寝てくれてホッとしました。

その後も順調に外泊にすすむことができました。

病院をでるだけでまずウルウルしましたが、自宅に帰って主人と長男、次男でお揃いの洋服をきているのをみると喜びもひとしおでした。

病院で上げ膳据え膳だったため、注入器具の消毒や、自分の3時間おきの搾乳であっという間に時間がすぎていきました。

その時の日誌には「注入、消毒で精一杯であまり遊んであげることもできませんでした。

でも疾患というより子育ての大変さ、なのかな。慣れていくしかない、お互いに。」と記載しています。

生後3か月半でようやく退院することができ、自宅での生活が始まりました。

自宅で生活するにあたって、訪問看護ステーションと契約し、毎日来ていただくことになりました。

退院してからも授乳で悩んでいたので、家族以外のプロの方が一緒に考えてくださるということはとても心強く、有難いことでした。

訪問診療も、経験豊富な先生にご相談することができ、予防接種も自宅でしてくださるのでお願いして本当に良かったと思っています。

病院にいるときは特に大変とは思わなかった注入も、いざ自宅でしてみるとびっくりするほど大変でした。

病院では使い捨てだった注入器具の毎回の消毒、注入中も体勢の変化で変わってしまう注入速度の調整、そして一番大変だったのが、退院直前くらいから始まりだした嘔吐への対応でした。

退院してからは特に吐きやすく、注入後に毎回吐いてしまう日もありました。少しでも吐かないように、抱っこしてゆらゆらしながら注入していましたが、毎回神経をすり減らしました。吐かないように注入速度を遅くすると、もう次の授乳時間になっていることもありました。

3時間おきに搾乳もしていたこともあり、いつも何かに追われていました。

そんな大変な時期でしたが、人見知りの次男も家族にはとてもニコニコしてくれる子でした。

主人の弟が「Hくんの笑顔は世界を平和にするわ。」と会うたびに言ってくれることが本当に嬉しく、そう言ってもらえるとやっぱり良かったなと思えるのでした。

生後半年を過ぎてからは、アンパンマンミュージアムに行ったり、元気な時は長男の趣味の電車を一緒に乗りに行ったりと、少し遠出もできるようになり、「楽しいな。幸せだな。」と思える瞬間も増えてきました。

呼吸器感染症に注意するようにと主治医の先生にも言われており、保育園に通っている長男からの感染にびくびくしながら過ごす日々でしたが、とうとう生後7か月の時に初めての呼吸器感染をおこしてしまいました。

少し鼻がでてきたな・・と思っていたら翌日には咳で眠れないほどとなり、入院することになってしまいました。

でも、適切に治療してくださったおかげで比較的すぐに体調も回復し、退院することができました。

また、この入院の時の絶食のおかげか、空腹がわかるようになり、退院後哺乳量が一気に増えて哺乳瓶で指示量全量が飲めることも増え、チューブは卒業となりました。

訪問看護のスタッフのみなさんは「あんなに飲めなかったのにね。すごいね。」と一緒に喜んでくれました。

その後も何度か呼吸器感染で入院が必要でした。

主治医の先生も看護師さんも入院の度に「大きくなったねぇ」と成長を喜んでくださり、とても良くしてくださりましたが、母親としては点滴やモニターがたくさんつながっているこどもをベッド上だけでなんとか安静にさせておくのは大変で、すごく気を遣いました。

いつもの倍私にべったりで少しでも離れると大泣きしてしまうこどもの横にいると、自分自身のごはんやトイレにはなかなかいくことができませんでした。

1歳1か月の時、ようやく酸素卒業となりました。

ただ、1年間以上も酸素とともに生活していたので、もはや体の一部のようになっていて、嬉しいというよりも、「本当にやめて大丈夫??」という不安の方が大きかったです。

恐る恐るでしたが、酸素が外れると活動範囲がさらに広がり、お出かけの時はとてもスムーズで、ありがたい気持ちでいっぱいでした。

その後も、喘息を発症したり、アデノイド増殖症と診断されてアデノイド切除術を行ったり、小さい山はたくさんありました。そのたびにすごく心配し、神経をすり減らしましたが、そんな中でも息子の成長や笑顔が支えでした。

こんなに色々なことを抱えながらも良く笑い、私の後を必死で追いかけてくれる息子を見るたびに、大切に育てていきたいという気持ちが溢れました。

酸素がはずれてしばらくしてから仕事復帰についても考え始めました。

仕事をするならきっちりしたいという気持ちと、次男に無理させてしんどくなったらどうしようという気持ちで葛藤しましたが、職場の方が状況をすごく理解してくださり、まずは短い時間から復帰してみてはどうかとおっしゃってくださりました。

次男の調子が悪い時は無理をさせず、ここまで大切に育ててきた次男を守っていこうと決意して、ちょうど2歳になった春から保育園での生活をスタートさせました。

幸い、保育園生活にもなじみ、ニコニコ保育園生活を送ってくれています。

すっかりお兄ちゃんとも対等にわたりあうようになり、お兄ちゃんをバシバシたたきながらおもちゃをとりあっている様子をみていると、2年前の手術をふと忘れてしまうこともあります。

でも、次男が少しでも調子が悪くなると急に不安がおしよせ、自分の余裕がなくなるのがわかります。そんな時、同じ経験をしてきたお母さんに話を聞いてもらったり、支えてもらっています。

これからも色々な山はあるかと思いますが、次男の成長を喜びながら家族も一緒に成長していきたいと思っています。